ロッカロッコ

パンクロック・メロコア好きの筆者が気に入ったバンドを、邦・洋問わず書き溜めていきます。

意図的な不協和音 / the HIATUS『Drifting Story』を聴いて

ついこないだ、こんなツイートをしました。

 

これは実は、タイトルにある通り、the HIATUS の『Drifting Story』を聴いて感じたことだったりします。ただこのツイートだけだと、「細美さんが作ったものだから良い」って言ってるみたいなので、今回はその辺りをもう少し掘り下げて。曲の感想も交えながら書いていきます。

Drifting Story

Drifting Story

  • provided courtesy of iTunes

 

ディスではないという前提で書いていくけど、まず私が感じたのは、「合ってない」。

もっと具体的に言うと、サビの機械音。シンセかな、ひとつだけ異質な音が飛び回ってる。音が多いと一見そんなに目立たないんだけど、サビの終わりにこの音だけが残る。どう考えても、おかしい音程で。

特に二番のサビ終わりからは、この音がすごく目立つ。他と交わることなく、溶け合うことなく、ただ独自のメロディーを奏でる。ハーモニーに参加してない。

 

普通の人間の感覚だと、すごく違和感を覚えると思うんです。そもそも弦楽器でも管楽器でもなくて、音の質自体が浮いてるし。かつ、人間が聴いて心地良いと感じる和音じゃない。不安定な、不協和音。

じゃあ逆に心地良い和音ってなんだ、って話なんだけど、分かりやすく言うとメロコアかな。メジャーコードで、明るい印象。これがひとつずれると、不協和音になったりします。あとは例えば、キーが合ってないと心地悪く感じることも多いね。

 

「例の音」はというと、キーが合ってないというのに近いかもしれない。多分ボーカルのメロディーがAメジャーだと思います。でもサビの最後に残ってるその音はBフラット、Aメジャーの音階にはない音。だから、本能的な感覚でいうと、「変」。

あとはよくよく聴いてみるとイントロもあんまり合ってない。合ってないというか、合わせてない。和音は和音で、メロディーはメロディーで、我が道をいくって感じ。

 

 

こういうのを聴くと、やっぱり「ハイエイタスはアートだなあ」と思ったりするわけです。

人工的で、人為的。ただ体に馴染むものではなく、ただすんなりと受け入れられるものではなく。意図的な「ずれ」が、そこにはある。

 

絵で例えると分かりやすいかもしれない。私的に一番近いのは、ピカソ。これについては以前ハイエイタスについて書いた時にも少し触れています。

roccarokko.hatenablog.jp

 

よく「ピカソの絵の良さがわからない」って言うじゃないですか。まあ私もわかってるかといえば、わかってないに近いんだけど。

ただ、ピカソが本当は「めちゃくちゃうまい絵を描ける」ということは知ってる。そしてこの「うまい」というのは、普通の人間の感覚としての「うまい」。例えば写真そっくりに描けるとか、そういう分かりやすい尺度。でもピカソの絵で有名なのって、『ゲルニカ』とか、よく分からないのが多いよね。

 

でも、そこには必ず「意図」がある。下手だから、出来ないからそうなったんじゃない。計画して、狙ってその作品を作っている。「それ」が「そう」でなければいけない理由がある。それが「力量不足の不和」と「意図的な不和」の差。

 

どちらも一般的には「変」だと感じるもので、本来の人間の感覚に馴染むものではないから、線引きが難しいこともある。だから作り手を見て判断されることがある。名前で、ブランドで、ラベルで判断されることがしばしばある。

そういうのもあって、私自身は「良し悪し」であまり判断しないようにしてるんだけどね。私の好みではなかっただけで、クオリティとしては素晴らしいものもあったりするので。

でも、言葉を選ばずにいうと、「ヘタクソ」かどうかの違いはやっぱ分かる。そして、『Drifting Story』は、例の音は、どこをどうとっても「ヘタクソ」でそうなったんじゃない。

 

 

なぜかというと、ひとつには細美武士という人が、「音のハマったものを作ろうと思えば作れる人」だと分かっているから。例えばエルレとかモノアイズとか、どちらかといえばメロディック路線のバンドでは、「例の音」みたいなものは存在しないし、存在させていない。ハイエイタスだからこそ、これをやってる。

「それって結局、人で判断してんじゃん」って思われるかもしれない。でも私は、細美武士という名前で判断してるわけじゃない。彼が有名で人気があるから、この曲が良いと言ってるわけでもない。

 

「アート」というものにおいて、「解釈の余地がある」というのはとても大切なことだと思っていて。それが、私がこの曲を「意図的な不和」だとみなすもうひとつの理由でもある。

どういうことかというと、「なんでこの音はここにあるんだろう」「なぜこういうメロディーになってるんだろう」っていうのを、考察できるんですね、この曲は。

ただの力量不足で生まれた「不和」では、これがない。「ああ、本当は綺麗にハマらせたかったけど、うまく整えきれなかったんだな」ってなるようなものじゃない。明らかな「異質さ」があるから。

 

ただ整っただけのものでは、表現できなかった何かがそこにあるはず。じゃあそれって何なんだろう。

これは私の感覚的なもの、しかしながら音をそのまま解釈したものにはなるけど、「馴染まない自己」がある気がする。サビではいろんな音が鳴ってて、全体として大きなハーモニーを奏でていて、「例の音」は一見紛れているけれど、その流れに沿っているわけではない。周りのものがなくなったとき、その姿が浮き彫りになる。「異質な自己」が露になる。

 

"That's my drifting story"、「これが俺の漂流の物語」。だけどその「漂流」は、ただ周りに流されていくだけではなく、確固たる「自己」がある。屈しないようもがいて、溺れないよう抗っている。

"Nothing will get me"、「俺は何にも捕まらない」。そんな自分を表すかのように、Bフラットの音が残る。

 

 

自分の解釈が作り手の意図と同じとは限らないけど、こうやって向き合ってみたときに初めて、アートとしての「不協和音」の価値を感じられる気がします。

というわけで久しぶりの投稿でした。私にしてはすごいシリアスモードで書いた感じするな!誰にも怒られませんように!それではまた次回!

 

Hands Of Gravity

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